自転車の性能+自意識

自転車の性能の三割(?)はタイヤによるものだという。
接地における摩擦の関係だと思うのだけど、その際に重要なのは空気圧。
物理の授業で、接触面積が少なければ力が分散されないというのを学んだけど、
物理法則は身近な場にある。タイヤの性能といえば、
昔、ドラッグレースでタイヤにわざとたわみをつくり、
エネルギーロスを防いで速度を上げるというのをやっていた。
少ないほうが良いのか、大きいほうが良いのか。どちらでもいい。
多分、それもまた正しいのだろう。最も重要なのはエンジンなのだから。
自転車の性能の三割がタイヤなら、残りの七割は乗ってる人だ。
結局のところ、回転数を上げる瞬発力も持続力を維持するのも筋力次第。
道具は所詮、道具でしかなくて、それをどう使うのかが違うというだけの話。
名刀をもてば、剣の達人になれるというわけでもなく、
道具を扱うには、ソレに見合うだけの技術が必要になる。
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僕達にとって最高の道具は自身の身体。
モノを動かすことも出来れば、表現することも出来る。
道具たる身体が、さらに道具を用いたならば、その道具もまた身体になり、
その範囲は無限大たりえる。・・・それを扱いきれるかもまたその人の技術次第。
この身体は痛みや刺激を伴って、世界の形を心に形成する。
それゆえ道具から得られた情報が、今度は身体に影響を及ぼす。
このとき、どちらが主従関係にあるのかは重要ではない。
身体も精神も心も、それらは分離されるものではなく同一の単位。
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では、現在のネットワーク社会、ICTに代表されるメディア媒体は、
一体何処までが僕達の身体と繋がっているのだろうか?
無限に広がる情報の渦の中で、何処までが僕達の意識が届くのだろう?
もし仮に意識が直接、ネットワークで繋がることになれば、
何を持って自己という存在になりえるのだろうか?
僕達は閉じている。肉体という領域に封じられて、また守られている。
各個、確固たる存在として、存在し続けるために。
この領域が取り払われたとき、僕達の意識はどう変化するだろう?
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他者との融合によって世界は平和になるとか、心が満たされるという話が出てくる。
だが、僕はそれを本能的に拒絶する。それは僕という存在の喪失に繋がるからだ。
そしてなにより、全人類の意識が共有されたとしても、そこにいるのは、
ただ巨大なネットワークで繋がった孤独な巨人がいるだけ。
僕たちの持つ、孤独や不安や、そういったものは決してなくならない。
一方で、相対する存在がいなくなり、愛は失われるだろう。
そこにあるのは絶対の孤独。断絶。終末。
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手と手を取り合って、僕達は繋がれる。
完全な意識の共有は出来なくても、それでもお互いを感じることが出来るだろう。
主従に関係なく、その二人は確固たる単位としてあるのだから。