涙を拭かずに

「泣かないの?」
「泣かないさ、泣くのは後でいい。」
まだ立ち止まるときじゃない。
かみ締めて、みなとの別れ。
ここであった、ここでであった、全てのことと訣別する。
パートのおばさんがたから、それぞれに靴下とハンカチを貰って、
バイトとは握手をして笑顔でお別れ。
「飲みに行きましょうね」「また会いましょう」
その約束は守られない。心の奥底でみんな気付いている。
長い年月のその先に、ここでともに働いたことを思い出してくれれば、
それで僕は救われる。
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君らは僕の見本だったんだよ?
口には出さなかったけど、いつもキミらを見習っていたさ。
Uとの最初の出会いは店長の紹介だった。
「いま、こいつがオレの右腕だ。まず、こいつを追い抜け」
そういわれて、ずっと追いかけてきた。
Wはラストでずーっと一緒だった。
唯一、一緒に酒を飲んでカラオケにも行って、二人で遊んだ。
キミの仕事に対する勤勉さは尊敬に値する。
手を抜かず、妥協をせず、文句を言わず、与えられたことに真剣に取り組む。
僕に欠けているものをもっている。
Sはみなと協調するバランス感覚に優れていて、たまに仕事の手を抜くけど、
文句を言いながらもちゃんと仕事もするし、何よりみなのことを見て、
自分がどうすれば、みながまとまるのかを知っていた。
Sは仕事が早くて、一番作業レベルが高い。でも、気性が荒くて、色々な人と
対立していたね。でも、仕事に対して真剣で、自分の仕事に誇りを持っていた。
誰よりも早く、誰よりも完璧に仕事をこなそうとしていた。
Sは縁の下の力持ちで、きっと君がいなければこの店は成り立たない。
のらりくらりとしているのに、自分が店にとっていかに重要か知っていて、
だから店のことを考えて自分のスケジュールを組んでいた。
Eはマイペースで仕事が遅いけれど、誰よりもちゃんと仕事をこなしていた。
作業の効率に追われるあまりに手を抜いてしまうことを、
キミは疑いもせずに淡々とこなしている。それはとても重要なことで、
僕がもっとも見習わなければならないこと。
Iさんは今はどうしているでしょうか?サービス業の師として、
社員とはどうあるべきかを教わりました。あなたの言葉は僕の心に刻まれています。
迷うとき、その言葉を思い出して、そうあるように行動しています。
あなたの言葉どおりに僕はやっていますか?そう問い続けています。
Kは働き者で、本当に淡々と仕事をこなす。多分、店で一番、自分が今何をすればいいのか、
それを自覚していた。キミに足りないのはリーダーシップで、それが発揮できれば伸びる。
Mは誰より一生懸命で、空回りしてしまうこともあるけど、
自分にできることを全力で尽くそうとする。全力を尽くしたことのない
僕には眩しいぐらいに、本当に一生懸命でだからこそ尊敬してます。
Kは店でもっとも冷静に行動できる。どんな問題があってもすぐに頭を切り替えて、
自分のペースを崩さずに行動できる人です。昼間の作業で頼りにしてます。
Nは明るくて朗らかで真面目です。最初にあった頃と比べて、一番変わったのではないかと思う。
正直、最初はギャルだと思っていたけど、話をしていくうちにいい子なんだと知りました。
見た目で判断した自分を恥じています。この一年で落ち着いて、しっかりしたね。
Hは店のムードメーカーで、ぴりぴりした空気を緩和してくれる。
柔らかで、穏やかな、そんな空気と突飛な言動でいつも救われます。
僕に足りない、そんな柔らかさをいつもすごいと思う。
Hは朗らかな、ひまわりのような青年で、実はポテンシャルがあるのに発揮できてない。
作業は一通り出来るし、もう少し責任を与えればきっといい指導者になれる。
精神的に弱い部分があって、機嫌が悪いとすぐに切れるけど、
普段のキミは本当に朗らかで、思わず笑みを誘われる。
Yは高校生なのに責任感が強くて、真面目で、でも社会に不慣れなせいか、
時々、戸惑っているね。いまどき、こんな純朴な青年がいていいのかと思うくらいに、
好青年でみんなに愛されてる。キミはきっと徳が高くて、周りから支持されるような、
そんな雰囲気を持っているよ。これから大学に行って、大人になって、
ここでのバイトが何かに役立つといい。
みんな、みんな大切で、普段は言わないけれど、大好きだよ。きみらに祝福を。
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向かいのセブンイレブンの御姉さんにお別れを言うと
「寂しいですね、後で行きます」といわれた。
あなたの接客は本当に敬意に値します。
どうやったらそんな感じのよさが出せるのですか?
あなたの人柄のよさが滲み出ていますよ。・・・言わなかったけど。
店に来て、少し話をした。もっと話せたらよかったけど、
コンビニの店員と常連の会話はこんなものだろうと思う。
手紙でも書こうか?
他の常連さんからも「キミのが一番おいしかったのになぁ」
「将来、海外事業に行きたいなら、やりたい事を言い続けること」
「いままで美味しいラーメンをありがとう」
「急に寂しくなるね」様々な言葉を、アドバイスを貰った。
あまりにもたくさんの善意で胸が痛くなる。
挨拶を出来なかった常連さんもいる。
いつか僕がいないことに気がついて、「最近、見ないね」といってくれるかな。
最初に商品を出してから、僕はどのくらいあなた達を思って、
商品を作ってきただろう。あの時とは段違いに美味しくなってるといい。
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「栄転というが、お前のはまさにそれだ。飛び級というかエリートコースだよ。」
歴代の管理職は、東京23区のビルインという特殊店舗から輩出されている。
それはひとえにそこが前線だからだ、前線に楽しい事はない。
もっとも売り上げの高い六本木は戦場だった。
それと同じクラスの渋谷。求められるレベルは研修とは違う。
「覚悟は?」
この一年を乗り越えた。もっと過酷な一年も乗り越えて見せる。
「必要ありません」
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この一年間は歩むには長くて、振り返るには短い。
10年後、僕がなにになろうとも、この日々を誇り、
その誇りに恥じない生き様を歩もう。
それが僕に出来る唯一のことだから。
だから今はまだ立ち止まらない。
明日から新しい戦いが待っている。
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店を閉め、いつもの作業を終わらせる。
もうここで、この作業をすることはない。
扉の鍵を閉めて、繰り返してきた作業の確認をする。
最後の作業。そして本当の最後に鍵を預ける。
鍵を預けられる。それは研修生から社員として認められること。
それは証で、誇りで、それを返すときが来た。
「一年間、御世話になりました!」
誰もいない店、誰もいない駐車場、自分に言い聞かすためだけに、
最後の挨拶をする。
一筋、涙がこぼれた。
これくらいはいいだろうと思う。
涙を拭かずに、店を後にする。
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日々の忙しさに、いつも通りやってくる日常に、
僕は心をすり減らして、いつかこの日を忘れてしまうかもしれない。
それでも、僕があるのはこの日を通り過ぎたからなのだ。
立ち止まり、振り返るときが来て、もう何も残っていなくても、
この日を思い返せば、全てが満たされたときがあったのだと思い出せる。
胸が痛いよ。この痛みもやがて薄れて消えてしまうかな?