楽園

今日も冬の空は澄んでいて、凛と張り詰めている。
空を望めば、月と星が輝いている。月光に照らされた湖を見るうちに楽園を思い出す。
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「楽園って一体なんだろうね?」彼女はそう溜息混じりに聖書を閉じた。
「神様を感じられないここは、きっと楽園ではないのだろうね。」
ぼんやり外を見ながら答える。
「遥昔に善悪を知る智慧の実を食べた罰として、限りある命と幾つかの呪いを受けた。
更に生命の木を食べることを恐れた主なる神は人を楽園から追放した」と
歌うように彼女は諳んじる。
「『我々』を模った人が善悪と永遠を手に入れたなら、きっと主と同じ力を得る。
それを恐れたのだろうね。主は随分とエゴイストだねぇ。
道徳の大部分は嫉妬と悪意から成り立っているのも頷ける。」
「善悪を知る実ってなんだったのだろうね?よく林檎と表現されるけど。」
「林檎のように赤いそれはきっと肉さ。人は肉を得るために戦争するようになった。
そして争いに勝つために智慧を発展させていったのさ。」
「では、もう一度君に問うよ?楽園とはなんだろうね?」笑いながら言った。
「・・・象徴さ。幸福、争いのない、満たされた、完璧な社会。
でも、そんなものは何処にもない。追放されたアダムとハヴァの子孫は、
神罰によって幾度か途絶えた。だから僕たちに楽園を辿る道筋はない。
手に入らぬからこその楽園・・・」
「そんなことは聞いていないよ。君にとっての楽園の話をしているの。」
「・・・」そのとき、僕は答えに詰まった。思い当たる節があるが、
それを応えるのに躊躇いがあった。
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僕の家には一冊の本がある。
誰が何のために買ってきたのか、いつのまにかその本は僕の本棚に納まっていた。
家にある活字は全て眼を通していた時期で、期待せずにページを捲る。
そのときあった本はほとんど捨ててしまったけれど、
未だにその本は大事に持っている。
タイトルは「アダムとイブの日記」・・・複数の著者による想像。
その中の一節がどうしても頭を離れない。
「いつか死が二人を別つとき、あなたよりも先に私を逝かせてほしい。
私はあなたを失った悲しみを抱えて、独りで生きる力も自信もないから、
あなたよりも先に死なせてほしい」そうイヴはいった。
イヴに先立たれたアダムはそこから長い間、生きた。
そして彼は最後の日記にこう残す。
「・・・彼女がいればそこが楽園だった。」
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時折、思い出してはこの言葉の意味を考える。
これを読んだ当時、僕にもいつかそういえる人が出来たらいいと思った。
そうして彼女と出会って、この言葉の重さを知った。
楽園を失うのは・・・言葉では言い表せないほどの疵痕を残した。
出会う前と出会った後、同じようで同じではない。
今でも時折、頭を過ぎるあの笑顔と甘い声。残された録音の声。
それはもう消えてしまったけど、耳から消えはしないだろう。
幾つかの「愛してる」という言葉は全て空気に拡散し、もう何も残らない。
残ったのは「愛していない」という文字。
・・・楽園は失われた。
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「楽園は望んでも得られぬもの。望む世界の欠片。一度は完成したけれど、
また欠片を失ってしまったよ。この心の空白を満たすモノが楽園の正体さね」
「君は意外と依存心が高いからねぇ。自分に興味がない分、
飼いならしてくれる誰かをいつも探していたものね。
よく『誰かの一番になったことがない』といっていたっけ?」
「あの時は確かに一番になっていたのだと思う。僕にとってそうであったように。」
「ふぅん。で、楽園を見た感想は?」
「・・・いつか、あそこに戻りたい。」