歩く

道は未知に通じる。
だから、歩くことはきっとなにか新しいことに遭遇するきっかけなのだと思う。
どちらにしろ人は歩く。比喩にしろ実際にしろ歩く。
そして、常に未知なるモノと出会い続けるのだろう。
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車を修理に出しているので、家まで歩いて帰る。
一時間半。
「では、お疲れ様です。いちっきー歩くのはえー」
そんなやりとりをしながら渡辺さんと別れる。
ここからは独りの時間。自分との対話。
コツコツコツコツ・・・自分の足音だけが延々と鳴り響く。
単調なリズムはやがて自分を催眠状態に陥れ、意識が途切れがちになる。
深大寺の坂道を下り始めた辺りから意識が変わる。
坂道はこの世とあの世の境、現と虚、あちらとこちらを分け隔てる。
気が付くと辺り一面の赤。
紅葉が散り、辺り一面を紅く、赤く染め上げる。
目の前に誰かが立っている。ああ、またこの場面だ。
あそこで僕は初めて紅葉を見た。
「ほら、もう秋はそこに来ているのよ」
そういわれて、窓の外をみる。
まるで一枚の絵画のように目が覚めるような鮮烈な紅がそこにはあった。
この場面は嘘だ。そこに彼女は居ない。そこに居たのは別の誰か。
その瞬間、幻を見始めていることに気が付いた。
次に見えたのは白い花。梅。薄紅。
ああ、そうか。もう、この季節がやってきたのか。
この季節は嫌いだ。いつも何か大事なものを失ってしまう。
この季節が好きだ。多分、一番美しい時を切り取ってくれる。
心の中にある原風景、床一面に広がる赤と、舞う枯葉、空には月。
錆びた鉄のような匂いと、影。また迷い込んだ。
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コツコツコツコツ・・・自分の足音だけが延々と鳴り響く。
ふと気付くと、影だけの世界。
町を照らす街灯と、辺りを支配する闇だけがある。
意識は斑で、感覚だけが鋭くなる。
リィィィィィ・・・・・・ンとなる鈴の音と、
ガサリと纏わりつく枯葉の音、
遠くで鳴り響くサイレンに、
カランコロンと鳴く虫の音、
ブゥゥゥゥンと聞こえる自動販売機の明かり、
ゴトリと踏みしめるマンホール、
・・・カンカンカンとなる警報機、
カナカナカナと纏わりつく音。
世界は音に満ち溢れている。
チリンと何か澄んだ音。
どこかでカチリと鳴って、一瞬、目が覚める。
気がつくと誰も居ない幹線道路。
等間隔に並ぶ街頭が、祭りの行灯のように見えて、
ああ、みんな祭りにいくんだとなんとなく思った。
この風景が好きだ。
どこか遠くへ行く、あの風景に似ているから。
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コツコツコツコツ・・・自分の足音だけが鳴り響く。
街灯に照らされた影達が、
この世界は闇でできていると呟いた。
世界から色は奪われて、黒と灰色の色だけが網膜に焼け付く。
まだ、僕は夢に居るらしい。影が騙り始める。
また、振り出しに戻ったなぁ。
不安定でぐらぐら揺れていたお前の心がまた傾きすぎて倒れてしまった。
揺れないために心を凍らせる、この夜の凍てつく風のように。
夢か現かわからぬような人生でお前は満足か?
夢も現も同じこと。俺に纏わりつく影のように、同じこと。
俺が影でも、影が本心でも進む道は同じ。
運命も同じ、あちらもこちらも同じこと。
時に胸が掻き乱されるだけのこと。
死ぬには足りず、生きるに値ず。
死んでいないし、生きてはいない、生ける屍のよう。
欲望も食事のように満たされては消化され、また空腹で欲を満たす。
繰り返し繰り返し。渇望していたものを得ても、
また失っては別のもので贖うだけのこと。
望む世界の欠片をまた探す。
かけた部分を補えば、完全な世界の断片を垣間見る。
そして、虚ろいやすい世界はまた不完全になる。
死ぬには至らぬこの苦しみを嘲笑え。
お前を生かすそれはなにか?
生きてはいないだけのこと。
生きていなければ、死なないだけ。
生きていると思える瞬間と、死んでいると思える一瞬を交互に交互に繰り返す。
今はその中間点。
この坂を下ればやがて底が見え、下れば上がるのがまた定め。
いまはただの分岐点。
影が謳えば、お前は騙る。思考の迷路に迷い込め。
そこにいるのは闇、自我の影、無意識の底に澱むなにか。
意味のない独り芝居を繰り返す。
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気がつくと家の扉の前に立っていた。
チリンと何か澄んだ音。
鍵についた指輪の音が意識を呼び覚ます。
明かりをつけて、またすぐに消す。
いまは闇こそ相応しい。心の平静と安らぎを、静寂な時間を与えてくれる。
明日には陳腐に思えるだろうこの想いも、
いまはただ留め置く。
明日、歩く準備をするために。