細胞と記憶と魂と

人の精神の所在はどこだろうか?
魂と精神との関係はあるのだろうか?
肉体と精神と魂と記憶は関係あるだろうか?
昔から問われる問題である。
かつて、人の精神は血液に宿り、心臓に宿り、脳に宿り、
そして精神など存在しないともいわれた。
ちなみに僕の感覚としては、精神は眼球の上辺りにあったり、
時々、外側に居たりする。酷く、感覚的な問題だ。
例えば、臓器移植したら、前の宿主の記憶も伝播する
なんてのは良く聞く話で、実際に組織的記憶論という学説もある。
即ち、脳幹細胞だけではなく細胞それぞれに記憶が宿るというのだ。
進化論をベースに考えるならば、後天的に獲得した形質が、
次世代の遺伝子に先天的に宿る可能性もないでもないと思う。
情報は書き換え、上書き、初期化可能だからだ。
しかし、そしたら献血はどうだろうか?
血液は全身を移動し、いきわたるのだから、
こちらのほうが記憶転写の話題に事欠かないような気がする。

臓器移植の話には興味がある。
例えば異種間移植であるとか、ES細胞であるとか、夢がある。
不老不死もその一環で、医療技術も日々、進歩している。
その実験過程に、堕胎児が使われていることも、
動物を使った人間の臓器製造工場が作られることも、
また、成人の臓器や皮膚が売買されることにもまた興味がある。
献血もまた臓器売買に他ならない。

肉体と遺伝子の関係も興味が尽きない。
例えば、本当に臓器移植によって記憶が転写されるのならば、
咀嚼した豚や牛の記憶も転写されるのか(消化という過程はあるが)
もし、頭から否定されるなら、遺伝子組み換え食物の安全性は、
どうだろうか?
古くから伝わる食人の話も関わってくるだろう。

仮に細胞の総体が精神を形作っているのなら、拒否反応も理解できる。
この身体は嫌だっていう気持ちが感情として納得できるからだ。
しかし、だとするならば、この身体もまた多数決の結果かもしれない。
右脳と左脳と脳幹と大脳新皮質と、それぞれの脳を分けたならば、
別々の人格、行動を示すという。
これら全体が連結を介してひとつ人格のバランスを保っているからだ。
Aという人格の脳と、Bという人格の脳がひとつのの容器にあれば、
それはAでもBでもA,BでもなくCという人格なのだろう。
1+1が2というまったく別の数字であるように、
みかんとりんごを見た場合、それは別々に存在するのではなく、
果物が二つあるという群の関係性が見えてくるのとにている。

結局、細胞も精神も魂も別々に考えたならば、
僕という存在は説明できず、これら全体をひっくるめて
僕という存在なのだ。また僕という存在を認知するのも、
君と僕と、その世界と、現在、過去、未来の複雑な関係性であって、
そのどれかひとつがなくなっただけで、いまここにいる僕という存在は、
失はれるだろう。

つまり、鈴木さんから臓器をもらった田中さんは、
鈴木さんでも田中さんでもない誰かになったというだけの話。

そしてこの日記もただの雑文でしかない。特になんの意味もない。