陽炎の揺らめく先に

陽炎―強い日射で地面が熱せられて不規則な上昇気流を生じ、
   密度の異なる空気が入りまじるため、通過する光が不規則に屈折して起こる。
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夏の、それはひどく暑い日だったように思う。
僕はまだ小学生で、高尾の祖父母の家に遊びに来ていた。
同年代の親戚がいるわけでもなく、もともと家族との縁の薄い僕は、
何をするわけでもなく、近所をぶらぶらとうろついていた。
その家は山の上に立っているために、あちらこちらに急な斜面があり、
坂を駆け上ってはその先に何があるのか、ちょっとした探検気分を味わうことができる。
角を曲がれば、無限に広がる田園地帯があったり、斜面の向こう側には、
崖ともいえる土砂防止用の壁と、その下をびゅんびゅんと走る車、
山の奥に小さな祠と朽ちかけた仏像が祀られていて、まあそれなりに楽しんでいた。
そんな中、十字路の角を曲がると、V字に曲がりくねった坂が見えた。
その道はゆらゆらと揺らめいて、当時の僕はそれが陽炎という現象だと知らずに、
なにか幻想の世界に迷い込んだような、振り返ってはもう戻れないような
そんな感覚に襲われた。向こうのほうにはこの暑い日だというのに水溜りがあって、
追いかけるとそれはどんどん向こうのほうに行ってしまう。
逃げる水を追いかけるうちに向こう側から誰かが歩いてくるのが見える。
その光景を今でも覚えていて、ゆらゆらと揺れる空気のように、
そいつはゆらゆらふらふらこっちへ踊るようにやってくる。
僕と同じ服をきて、そのくせ顔だけがぼんやりとおぼろげで、近づいてくるのに、
遠くに行くような、まるで全ての時間が止まって、僕とそいつだけが動く、
そんな風にして僕達はであった。
気が付くとそいつは僕の眼と鼻の先にいて、口だけが大きく裂けたように哂っていた。
なにかを話しかけられたようにも、なにも言われなかったようにも思う。
ゆっくりと手を伸ばすと、そいつも同じように反対側の手を持ち上げて、触れ合った。
ひんやりと冷たい感触。太陽がぎらぎらと大地を照らして、陰が異常に暗い。
お互いの影は顔がわからないほどに黒く、そこだけが世界と切り離されたような感覚。
・・・目覚めると僕は祖父母の家の縁台に寝かされていた。
「・・・道で倒れていた」そう呟く祖父に僕はさっきあった出来事を話す。
つたない話。それでも祖父は真剣な眼差しで僕を見返すとこういった。
「昔、まだ警官だった頃に同じような経験をしたことがある。
夜の道をあるいていると電灯の下にもう一人の自分が向こう側に立っていた。
あれは見間違いだったのかもしれないと思っていたが、そうか、
洋も同じような経験をしたか。」そういうとひとつの詩を呟いた。

静けき夜 巷は眠る
この家に我が恋人はかつて住み居たりし

彼の人はこの街すでに去りませど
そが家はいまもここに残りたり

一人の男 そこに立ち
高きを見やり

手は大いなる苦悩と闘うと見ゆ
その姿見て 我が心おののきたり

月影の照らすは
我が 己の姿

汝 我が分身よ 青ざめし男よ
などて 汝 去りし日の

幾夜をここに 悩み過ごせし
我が悩み まねびかえすや 

後にハインリッヒ・ハイネによるものだと僕は知ることになるその詩は、
今でもひどく心の中に残っている。
「それは妖の類であるのかもしれないし、幻なのかもしれない。
陽炎の揺らめく先にみたものは洋自身だったのかもしれない。
では、そのとき洋の姿をみていた君は誰だったのだろうね?」
そういって、祖父は笑った。その笑いはあの時のあいつと同じ哂いに見えた。