私的所有権+対話

三月ですね。
ところで私的所有権についての会話をする機会が多い。
まあ福岡の居酒屋で彼女の引越しの際のごたごたや、
お店で働いているときの傘がなくなっただの話や、
ロイヤルホストでしただべりに出てきた会話や、
家の駐車場に知らない車が止まっていたこと。
みんな、私的所有権を素敵に無視している。
個人の所有するものを勝手に使うなよな。
ウォークマンとか返せよな、ちゃんと。
とはいって我が身も振り返ってみる。
ごめん、こんど、本をかえします。
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昔、先輩がなんの断りもなく僕のお菓子を食べた。
「何、勝手に食ってるんですか?」
「ええやん、くれよ」「嫌です。」
そういって彼は気にも留めず勝手に食いやがった。
その態度があまりにもあつかましくて「・・・ふざけるな」といって、
その菓子を全てゴミ箱に捨てた記憶がある。
いま思い出しても気分が悪い。
お菓子なんてその程度のことと思われるかもしれないが、
ちゃんと断りを入れてから食え。あたかも当然のことのように手を出すな。
失礼だ。
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ふと思い出だす。
経済社会が発展するようになった要因に私的所有権が保護されることがあげられる。
自分の持てる資産を自己のために使用する。(一昔前はできなかった)
自分の持てる資産・・・それは第一に自分の命、体、精神、労働力。
そして、それらを駆使して得たモノ。そのモノは自己の手足の延長として考えられる。
つまり、私的所有権の侵害は、自己の身体を犯されるのと同義であると飛躍してみる。
では、例えば仕事で組織に属している場合や恋人同士などはどうなるのだろう?
お互いがお互いを所有している状況だろうか。だから放棄できるのだろう。
自分の体の一部を捨てる。切り離す。占める部分が大きければ大きいほど、痛い。
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ところで、この私的所有権という考えは西洋では定着している(といわれている)
一方で日本ではこの考えはまだ希薄のように思う。
ルームメイトが勝手に服を着ていたとか、机のはさみを使っているとか、
インターネットを独占しているだとか、そんな話を良く聞く。
勝手に使うなというと、「いいじゃん別に」悪気の欠片もない。
そこにあるというだけでそれは共有されているのだ。
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日本では同じ文化を共有しているという前提が「共有」されている。
以心伝心とか阿吽の呼吸とか、非言語の対話は文化の共有が前提にあるように思う。
このいわなくてもなんとなく通じ合ってるよね感が
いいところであり悪いところでもある。
言わなくてはわからないこともあるし、言わなくていいこともある。
知らぬが仏とも言うし、空気を読むというのだろうか。感覚的だ。
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「コミュニケーション能力って日本語でなにかな?」と聞かれたので
「対話」と応えてみた。対話という言葉は深い意味を持つと思う。
相手の言っていることを理解して、それを解釈し、応える。
その解釈の部分変換が酷く難しいのだ。同じ文化、暗黙知を共有していれば
ぬるぽ」といえば「っが」と応えてくれるがわからなければ対話は成立しない。
だから、対話に至るまでは呼びかけであり、会話であり、単語の交換でしかない。
思うに対話は会話、読解、理解、通信などの要素を含んでいるように思う。
会話は会って話す、現場の空気を対面して得る。
現場の空気を相手の心を読み、読んだものの理を解き、通じ信じあう。
個人の持つ絶対的な感覚を照らし合わせて相対的に理解し、
そうして話が成立する。なんて考えてみた。
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「私とヒロは結局、一度も通じ合ったことはないよ」といわれた。
そうではないと思う反面、そうなのかもと思ってしまった。
あの時、僕は彼女のことが好きだったし、彼女は僕のことが好きだったと思う。
でも、彼女がそのとき同時に持っていた悩みや葛藤を知ることはなかった。
それは、僕が彼女にちゃんと向き合っていなかったからなのか、
それとも、彼女が僕に悩みを打ち明けることに意味を感じなかったからなのか、
色々な理由があったのだと思う。対話したいと思った。でも、できなかった。
最初から最後まで彼女は謎だった。好きになった理由も別れる理由も、
何度となく聞いたけれど、どれも核心には至らなかったと思う。
もしかしたら、話していたけど、それが僕まで届かなかったからかもしれない。
多分、彼女は理想主義者なのだ。僕が彼女の理想の人だから好きで、
彼女の理想の生活に僕が当てはまらなかったから、別れた。
そこに本当に僕の存在はいたのだろうかとふと思う。
同時に僕は本当に彼女と向き合ったことがあっただろうか?
一緒にいることに満足してしまって、彼女と対話できていただろうか?
「ヒロは自分の思っていることをいっているだけだよ」
駆け引きは嫌い。喧嘩もしたくない。正直に話すことが誠実だと思った。
でも、それは対話ですらなかった。
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話すことは知ること、理解すること、通じ合うこと。
もっと色々、話したかったけど、何を話せばよかったのかわからなかった。
言葉で話すのは苦手。行動のほうが単純。だから触れ合う事が好き。
でも、それは許可が要る。許可が出ないと拒絶される。だから通じ合えない。
触れ合うことは通じること?結局、結果的には通じ合っていなかったのだろう。
いつか、誰かと本当に通じ合うことがきるだろうか。
それこそ、私的所有権を行使できるほど、ひとつになるときが来るだろうか。