Made in love

「結局、恋だのというのは錯覚なのさ」
「よかった、あれは恋に他ならないのだね」
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眠い頭で更新した、たった二行のこの日記の意味がイマイチ掴めない。
・・・ああ、思い出した。幸せな演技をしていたといわれたことと、
恋をしたフリをして、本当に恋してしまったことについてだ。
相変わらず引きずってやがるのか、このクソ野郎といわれそうだが、
もう、そんなに残像は残っていない。傷口が疼くだけ。
時々、わからなくなる。恋に恋をするとはよく言うけれど、
なんだったのだろうと思うことがある。
「恋は錯覚」と誰かが歌っていたので、あれは錯覚だったのではないだろうか?
自己愛を映す鏡として、他者に自身を投影する話は以前した。
つまり、自分の描く理想としての愛の化身を、相手に当てはめたなにか。
それが、相手の本来の姿であると錯覚して理想の恋人だと思う。
だから、あれは恋ですらなかったのではないだろうか?
しかし、恋が錯覚だというのなら、錯覚もまた恋だとなんとなく思った。
ああ、あれはやっぱり恋だったのだろうなぁと自己の中で完結性を持って、
納得したのさ。それが上の台詞回し。恋は錯覚なのだ。
それを錯覚と気付くかどうかが重要な点という話。
この恋をもって、僕は知りたかったの表面に触れたように思う。
社会の半分。知ったところで謎は深まったけど、経験はしたわけだ。
この恋をもって、様々な気付きを得た。主に失恋によってだったけど。
恋によって育まれたものはなんだったのだろう?
たくさんのものを教えてもらったし、支えてもらった。
でも、終わった今、それらは全部嘘だったのかなぁと思うと少し寂しい。