お面

祭りの季節になると、休みの日にはぶらりと縁日を覗く。
誰が買うのか知らないが、縁日にはセンスの悪いお面がうっている。
その中でときたまに、凝ったつくりのお面が売られていることがある。
僕はそういったお面が好きだ。
特に狐のお面。狐に関して特に意味はないと思う。
昔見た映画か、写真か、それとも白昼夢か、現実か、
僕の中ではお面=着物を着た狐面の男という構図ができている。
狐の嫁入り、天気雨、森の中、木に寄りかかって、腕組みをし、
不敵に笑う、狐面。全てを悟ったような、全てを馬鹿にしたような、
シニカルに、ロジカルに、ただそこに居るだけの存在。
そんな画が僕の脳裏に焼きついている。
そんな僕は、実際に狐の面を持っている。
たまに被ってみるが、なんだか心地よい気分になる。
お面を被ると自分が自分でないような、
狭くなる視界に反比例するように、
自己の意識を客観的に捉えられるようになる。
それは世界と自分の境を切り取ったような感覚。
それは灰暗い世界。といえば格好よく聞こえるが、
要するに視界が悪くて、光が届かないだけだ。
一種の催眠誘導しやすい条件を面が与えてくれるともいえる。
その状態では自覚しすぎて、感覚が麻痺して、時間の間隔が曖昧になる。
あるいは一瞬で、あるいは止まったかのように、あるいはなかったかのように、
時間が流れていく感触。
思えば、この灰暗い世界をずっと見てきたような気がする。
既視感がやってきて、予知夢を見るようになる。
そういった症状が現れる。
面を被るのはいつも不安定なときなので、
単純に繰り返されるだけの日常が、
そのまま既視感と予知夢を見たような感覚にさせているだけなのかもしれない。
仮面に関しては心理学でも取り扱われている題材で、
一般にペルソナと呼ばれているらしい。
社会と意識との境界線、意識の表層に表れる自我のようなもの、
と僕は認識している。
人はみな、仮面を被って与えられた役割を演じるということなのだろう。
括弧で括ったような役柄。
最近、自覚が薄くなってきたので、人と接するときには、
仮面を被ってないと、深入りしてしまう。
距離感が保てなくなる。
だからやっぱり、お面は必要だ。